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zoom RSS クートの戦い(1915〜16)

<<   作成日時 : 2017/08/10 15:58   >>

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クートの戦いは第一次世界大戦における戦いの一つです。メソポタミア(イラク)のクート(トルコ語ではクート・エル・アマラ)にこもったイギリス軍をオスマン帝国軍が包囲し、イギリス軍救出部隊を阻止して、これを陥落させました。

両軍はともに疲弊していましたが、オスマン帝国軍イラク地域司令官ヌーレッディンは、追撃を続行し、戦略要地を次々と奪取して、チグリス川の架橋を占領しました。1915年12月には、総計14,000〜5,000の兵力をもって、イギリス籠城軍の包囲攻撃を開始しました。イギリス籠城軍はほぼ同数の13.000の兵力でした。ヌーレッディンの部隊は攻撃を行いましたが、進展はありませんでした。一方イギリス軍は兵力約2万を編成し、エイルマー将軍に指揮させて、クート救援に向かわせました。イギリス軍救出部隊の報を知ったヌーレッディンは若干の増援をえて、イギリス籠城軍部隊と、イギリス援軍部隊に対抗させる部隊の2つに分け、自らはイギリス援軍部隊に対抗する軍の指揮を執りました。翌年1月初旬の2日にわたる戦闘で、エイルマーのイギリス軍は撃退されました。オスマン帝国軍のヌーレッディンは、カフカス戦線に転出したため、ハリル=ベイ大佐がイラク地域司令部の指揮を執ることになりました。
1月12日エイルマーはオスマン帝国軍陣地攻撃を行いましたが、多大な損害を被り、失敗しました。ハリル大佐は、陣地をさらにフエライエに後退させました。21日エイルマーはまたも攻撃しましたが、撃退されました。ハリルはチグリス川の右岸から迂回されないよう川を跨つて陣地を構成しました。3月エイルマーは右岸から攻撃に出ましたが、大敗し、オスマン帝国軍に追撃される始末でした。
度重なる失敗により、エイルマー将軍は更迭され、その参謀長のゴリンジ将軍がこれに代わりました。4月イギリス軍はフエライエ陣地を攻撃しましたが、失敗しました。クート籠城は困難との報告を受けたゴリンジは、フエライエ攻撃を敢行しましたが、撃退されました。イギリス軍は最後の試みとして、運送船に補給品を載せて、クート籠城軍に届けようとしましたが、無オスマン軍に阻止されて失敗に終わりました。こうしてイギリス軍の計画はことごとく失敗してしまいました。


     クートの戦い指揮のオスマン帝国軍将軍

イギリス軍はクート開城を決意し、4月29日にオスマン帝国軍に投降しました。籠城4ヶ月に及ぶ包囲戦でした。このクッテル・アマラ(クッテル・アマラ)の包囲戦はオスマン帝国軍戦史を飾る最大の名誉であるとの指摘もあります。


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